陰陽師とは/陰陽道を学ぶ (歴史・五行・呪術等)

投稿日: 2024.11.1
スピリチュアルアルケミスト 小西未珈

陰陽師の起源と歴史を学ぶ

平安の世。災いを遠ざけ、未来を読み解き、目には見えない神秘の力を操る者たちがいました。彼らは陰陽師と呼ばれ、古代から現代に至るまで、日本の文化とともに変化し続けてきた神秘的な存在です。その姿は映画や漫画、文学作品などでもたびたび描かれ、わたしたちにとっては、未知で神秘的な力を操る存在として人気を集めています。それは、陰陽師が持つ不思議な力や奥深い知識には、私たちの日常生活にはない神秘の魅力や、謎めいた部分を感じるからでしょう。陰陽師が扱う陰陽道は、中国から伝わった陰陽五行、風水、道教、儒教といった思想が日本で、神道などとも融合し、独自の発展を遂げたものと言われています。その中で、陰陽師達は、自然との調和を重視し、邪気を祓い、未来を占い、さらには人々を守る役割を担うようになったと言われています。日本では、陰陽五行が神道の自然崇拝の考え方と調和し、邪気を祓うための儀式や、方角を占って災いを避ける風習などに応用されていきました。そんな彼らの技術や役割が、時代とともにどのように変化しながら現代まで引き継がれてきたのかを知ることは、日本文化への理解を深めるきっかけにもなるでしょう。この先では、陰陽師の起源から歴史、そしてその役割や技術について詳しく学んでみたいと思います。

陰陽道の起源

陰陽五行思想が日本に伝わったのは飛鳥時代(6世紀末から8世紀初頭)とされています。この時期、日本は遣隋使や遣唐使を中国へ派遣し、進んだ文化や思想を学ぶための交流を深めていました。その中で、陰陽五行思想も注目され、日本独自の社会や儀式に活かされるようになったようです。特に唐の時代、中国では陰陽五行思想が王朝の儀式や暦の作成、天体観測など、さまざまな分野で幅広く使われており、日本でも国家の安定に役立つ技術として採り入れられてきたと言われています。陰陽五行とは、古代中国から伝わった基本的な宇宙観や哲学体系です。陰陽五行説は、中国王朝で政治、建築、医学、占いの基礎理論としても採り入れられ、皇帝の治世を安定させるための方法として広く認められていたと言われています。

陰陽五行説

陰陽道の中心にあるのは、陰陽五行説です。これは、陰陽(すべての現象が陰と陽の二つの相反する要素に分けられるとする思想)と五行(宇宙を構成する五つの基本要素として、木・火・土・金・水を設定した思想)を合わせた理論で、古代中国で発展しました。また、陰陽五行説は、万物の成り立ちや変化を説明するために用いられ、道教や儒教とも深く関連しています。

陰陽は、光と影、昼と夜、男性と女性のように、すべての現象に対立する要素が存在するという考え方です。陰と陽のバランスが調和をもたらし、これが崩れると混乱が生じるとされています。

五行は、木・火・土・金・水の五つの要素が宇宙の基本を成し、これらの相互作用によって世界が動いているという考え方です。五行はそれぞれ、異なる性質や方位、季節、臓器などに関連づけられ、万物の循環を理解するための指針とされました。

陰陽寮の設立

陰陽寮は、日本で陰陽道に基づく儀式や占術を行う国家機関として設立されました。その起源は、陰陽道が正式に日本の政治や宮廷生活に取り入れられた奈良時代にまで遡ります。以下は陰陽寮の歴史的背景や設立、役割についてです。陰陽道の思想や技術は、奈良時代(710-794年)に、朝廷の制度や文化に取り入れられ始めました。特に、中国の唐王朝の制度を取り入れる過程で、陰陽道の知識も参考にされ、日本での陰陽師制度の基礎が形成されていったと言われています。日本で陰陽道が広まると、陰陽道の知識と技術を専門に扱う陰陽師と呼ばれる職業が生まれました。陰陽師は、皇室や貴族の庇護を受け、重要な占いや儀式を行い、社会的にも重要な役割を果たすようになりました。

飛鳥時代(592年~710年)

唐や隋といった中国の王朝から様々な技術や思想の影響を濃く受けていた飛鳥時代では、仏教や中国文化が日本に本格的に導入された時代です。この時期、陰陽道の知識を持つ人々が宮中で活動していたと考えられていますが、彼らはまだ「陰陽師」としての役職を持つわけではなく、主に天文や暦の管理を通じて王朝の儀式に関わっていたとされています。特に、天武天皇(在位:673年 – 686年)や持統天皇(在位は686年から697年)の時代に陰陽道などが積極的に採り入れられ、陰陽寮の基礎が築かれていきました。そして文武天皇(在位は697年から707年)の治世で、大宝律令(701年)の施行によって、陰陽寮が設立されたと言われています。その頃には、天体観測や暦の編纂が重要視され始め、それに携わる専門家として、陰陽師が存在していたとされています。

奈良時代(710年~794年)

奈良時代(710年〜794年)は、律令国家が形成され、陰陽道が初めて公的な制度として取り入れられました。この時代に、陰陽師を管理する機関として陰陽寮が設置され、陰陽師たちは主に天文観測、暦の編纂、そして国家儀式の吉凶判断を行いました。陰陽師は、式部省の一部門として国家の一員として働き、特に農業や宮中行事のための暦作成が重要な任務でした。この時代の陰陽師は、あくまで国家の安定や社会の秩序を保つために必要な存在であり、災厄の予測や天文現象の解釈が主な仕事とされていました。奈良時代の陰陽師の主な職務は、国家の暦作成と管理、天体の観測、方角の吉凶判断に限定されていました。暦の編纂は農業や宮廷行事に欠かせないものであり、陰陽師たちは天体の観測によって、正確な暦を作成し、国家の秩序維持に貢献しました。陰陽師の活動は公的なものであり、個人や貴族の生活に深く関わることは少なかったとされています。奈良時代の陰陽道は、基本的に国家の儀式や暦作成に限定されており、まだ民間に大きく影響を及ぼしてはいませんでした。陰陽師の活動は、国家の安定を目指すものであったため、庶民や地方での信仰として広がることは少なかったようです。奈良時代には、特定の有名な陰陽師が登場したという記録は少なく、主に集団的に国家機関で働く陰陽師が中心でした。陰陽寮の制度下で職務を遂行する陰陽師たちは、個々の霊的な力よりも、制度や技術としての陰陽道に基づいて活動していました。

平安時代(794年〜1185年)

平安時代(794年〜1185年)になると、陰陽師は国家だけでなく貴族社会や宮廷生活の中で不可欠な存在として位置づけられるようになりました。特に貴族や皇室に深く関わり、日常生活や重要な決断にも陰陽道の占いや助言が用いられました。平安時代の陰陽師は、災厄除けの儀式や吉凶判断、さらには個人的な運命判断まで行い、貴族たちの精神的な支えとなっていました。平安時代には、陰陽師が貴族の日常生活に入り込み、災厄除け、方違え(かたたがえ)、占いといった個人の運勢や吉凶を占うことが職務の一部になりました。特に方違えは、特定の方角に悪い影響がある場合、吉方(良い方角)に一時的に移動して災いを避けるもので、陰陽師の助言が不可欠でした。また、平安時代の陰陽師は、貴族の家族の健康や将来を占い、必要に応じて呪術や式神を用いることもあり、安倍晴明のように、強い霊的能力を持つ陰陽師も登場しました。平安時代には、貴族だけでなく民間にも陰陽道が浸透し始めました。陰陽師は、特別な力を持つ者として、次第に庶民の間でも信仰されるようになります。貴族や民衆が陰陽師に厄除けや占いを依頼するようになり、陰陽師の活動が民間にも広がりました。特に平安時代末期には、陰陽師の役割が一般にも広まり、陰陽道が民間信仰の一部として庶民の生活に取り入れられていきました。

安倍晴明

安倍晴明は、921年(延喜21年)に生まれ、1005年(寛弘2年)に85歳で没したとされています。安倍氏の出身で、陰陽師であった父・安倍益材(あべのますき)から陰陽道を学んだと言われています。幼い頃から非凡な才能を示し、やがて陰陽寮に仕官し、宮廷で陰陽師としての活動を始めました。晴明は、占術や厄払い、式神の使役などにおいて他の陰陽師を超える力を持ち、多くの人に尊敬されたと言われています。平安時代の有力貴族であった藤原道長から信頼を得て、道長の健康や運勢、災厄除けなどに力を発揮したとされています。晴明は方位の吉凶を判断したり、災いを避けるための方違えの指導をして、貴族の生活に深く関わり、彼の助言はとても信頼されていました。特に、晴明が他の陰陽師と異なっていたのは、式神と呼ばれる霊的な存在を使って、災いを予知したり、人々を守ったり、必要な情報を集めたりしていたということです。晴明がこの式神を使いこなしていたことで、彼は他の陰陽師とは違う特別な存在として見られていました。安倍晴明のゆかりの地の中でも、有名なのは京都にある晴明神社です。晴明神社は陰陽師ファンや歴史好きな人達にとって、晴明のゆかりの地として訪れたい場所となっています。

鎌倉時代以降

鎌倉時代(1185年〜1333年)は、武士が政権を握るようになると、陰陽師の役割にも変化が生じました。平安時代まで陰陽師は貴族に仕え、宮中で儀式や占い、災厄除けなどを行っていましたが、鎌倉時代には武士たちが戦や政治の決断において陰陽師に助言を求めるようになりました。安倍家を中心とする陰陽師たちは戦の方位や吉凶を占い、戦略的な助言も行うようになり、陰陽道は次第に庶民にも浸透していきました。一般庶民も陰陽師に厄除けや吉凶占いを依頼するなど、陰陽道が庶民生活にも根付いていったと言われています。室町時代(1336年〜1573年)には、陰陽道の知識がさらに民間に根付いていきました。この時代、神社や寺院と協力しながら活動する「寺社陰陽師」も登場し、陰陽道は、神道や仏教と結びつきながら広がりました。また、庶民の間でも「お日柄」や「方違え」といった考え方が普及し、結婚や引っ越し、家の建築などで陰陽道の方位や吉凶が重視されました。この時期に、安倍家から分かれた一族が土御門家として独立。土御門家は京都の土御門通り周辺に居を構え、安倍家と並んで陰陽道の知識を引き継ぎ、陰陽寮で重要な役割を果たすようになります。寺社と協力して陰陽道の権威を持ち、神社や庶民の行事にも影響を与えるようになりました。

戦国時代(1467年〜1590年)は戦乱が続く時代であり、陰陽師は戦国武将たちの相談役としても重要な役割を果たしました。戦国大名たちは戦の勝敗や出陣の日取り、方角の吉凶を占うために陰陽師に依頼し、陰陽道の知識を戦略にも取り入れました。しかし、この時代には陰陽道が迷信として排除されることもあり、武士が陰陽道をどの程度信じるかは個々の大名によって異なったと言われます。江戸時代(1603年〜1868年)になると、幕府は陰陽道を管理するために土御門家を陰陽道の最高権威として認めました。幕府は陰陽寮を廃止する一方で、土御門家に「陰陽頭(おんみょうのかみ)」の地位を世襲させ、陰陽道の知識と技術を独占・管理させました。土御門家は、暦の作成や方位の吉凶判断、庶民向けの「伊勢暦」の発行を行い、陰陽道が庶民の生活に密接に関わるようになりました。こうして、土御門家は陰陽道を庶民文化に根付かせる重要な役割を果たしました。

明治時代の近代化に伴い、政府は1870年に陰陽寮を正式に廃止しました。これにより、土御門家も公的な陰陽師としての地位を失いましたが、陰陽道の知識や技術は一部で受け継がれていきました。現代では、土御門家や安倍晴明は陰陽道や日本の伝統文化の象徴として認識されています。京都の晴明神社は安倍晴明を祀る神社として多くの参拝者が訪れ、陰陽師の神秘的なイメージが広く受け入れられています。また、土御門家や安倍晴明に由来する陰陽道の知識は、占いや風水、民間信仰としても親しまれ、その影響は今も続いています。

陰陽師の主な役割

陰陽師の役割は多岐にわたり、陰陽寮(おんみょうりょう)という機関でそれぞれの専門分野に従事する陰陽師たちがいました。それぞれが専門的な技術と知識を用いて社会に貢献していました。ここでは、「暦」と「天文」をご紹介します。

暦博士

暦博士は、陰陽寮という国家機関に属し、暦の作成と管理を専門に担当していた重要な役職です。暦は、農作業や祭り、天皇の行事や人々の暮らしに欠かせないもので、その管理は国の安定と人々の平和な生活に大きく貢献していました。暦博士は、中国から伝わった陰陽五行や天文観測の知識を活かし、正確な暦を作り上げることで、社会全体のリズムを整える役割を果たしていました。暦博士の仕事には、星や月の動きを観測して毎年の暦を作り直すことが含まれており、そこには季節の変わり目や吉日・凶日が記されていました。暦には「二十四節気」(春や夏の始まりを示す時期)や「七十二候」(季節の細かい変化)も記され、社会全体が同じ季節感を持てるようになっていました。特に、陰陽五行の考え方に基づく吉日や凶日は、皇室の行事や農業、結婚や引っ越しなどの予定を決める大切な指標とされ、暦博士の知識が生活の隅々まで役立っていたのです。

天文博士

天文博士は、陰陽寮に所属し、夜空を見つめて星や月、太陽の動きを観察し、これらの天体現象から国家や社会の行く末を占う専門家でした。天文博士の役割は、日食や月食、彗星の出現、大きな地震などの自然災害が起こった際に、これが何を意味するのかを読み解き、朝廷へ報告することでした。こうした現象は、国の安定に影響を与えると考えられていたため、天文博士の観察結果は非常に重要視されました。天文博士の解釈と報告は、天皇や貴族が重大な決断を行う際の指針となり、国家の運営にも関わる重要な職務として知られていました。天文博士が使っていた道具には、「天文盤」や「式盤」などがあり、これらを駆使して夜空を観測していました。天文盤は星や月、太陽の位置を正確に測るための道具で、天体の動きから吉凶を判断するために使われました。式盤は十二支や方位が刻まれた盤で、星の位置だけでなく、特定の方角が持つ吉凶も占うことができ、政治や軍事、宗教行事の計画にまで活用されました。こうした道具を用いて、天文博士は季節の変わり目や年ごとの運勢、国を守るための兆しを読み取ろうとしたのです。平安時代の著名な陰陽師、安倍晴明も天文博士として名声を得た一人でした。晴明はその天体観測と占星術の技術で貴族たちに助言を与え、日食などの現象の意味を読み解き、災厄や吉凶を判断していました。晴明の能力や知識は当時の社会にとって欠かせないもので、多くの人々が彼の助言に頼ったとされています。

陰陽師の占術

陰陽師の占術は、国家の行く末を占い、個人の生活にも影響を与える幅広い役割を持っていました。高位の陰陽師がこれらの占術を駆使し、重大な場面で助言を行ったと言われています。以下に、陰陽師が用いた代表的な占術を詳しくご紹介します。

天体観測と暦占

陰陽師は、太陽や月、星の運行を観察する天体観測を通じて、未来を予測する「暦占」を行いました。暦は日本に伝わってから陰陽師の重要な役割となり、彼らは自然のリズムに基づいた暦を作成することで、人々の生活や国の行事の指針を提供しました。暦占では「二十四節気」や「十二支」を用い、季節の移り変わりを予測し、農作物の栽培に適した時期や、異常気象による災害を予測しました。これら予測は、農業を行ううえでの重要な参考として使われ、農作業の結果にも大きな影響を与えました。陰陽師は「二十四節気」や「十二支」などを用い、農耕に適した時期や災害の兆しを予測しました。国家行事では、祭りや儀式の日程を決める際にも暦占が行われ、陰陽師の示す吉日や凶日が信頼されました。

方位占

陰陽師は、方位に基づいて吉凶を占う「方位占」も行いました。これは、引っ越しや建築、旅行の方位や日時が吉であるか凶であるかを判断する占術で、現代の「風水」にも通じるものです。特に引っ越しや遠征といった「動き」が伴う行為では、凶方位に向かうことで災いが起こると信じられたため、陰陽師による吉方位の選定が重要とされていました。陰陽師は、木・火・土・金・水の五行の原理に基づき、方角に関する吉凶を判断しました。たとえば、「南に向かうと良い」「東への移動は避けるべき」といった災いを避けるための具体的なアドバイスを行っていました。また、平安京の設計には「四神相応(しじんそうおう)」という考えが取り入れられ、東西南北を守る神々の配置が都市を守るように設計されたと言われています。

兆占

自然界の異変や珍しい現象を見て未来を予測する占術です。日食や月食、彗星の出現、大地震などの自然現象が起こると、陰陽師はこれらを前兆とみなし、将来の出来事を予測しました。たとえば、彗星が現れると戦争や疫病の前触れと考えられ、陰陽師は災厄を避けるための儀式を行い、国の平安を保つために貢献していました。特に天変地異は、天皇家や国にとっての吉凶に大きな影響を与えると信じられていました。たとえば、彗星が現れた場合、戦争や疫病の流行、飢饉などの大災厄が起こる前兆とされ、陰陽師が厄除けのための祈祷や儀式を行ったとされています。

夢占

夢に現れる象徴的なイメージを解釈し、未来の出来事や運勢を占う技法です。夢占は、特に平安時代の貴族階級で重視され、夢の中に現れた動物や自然の風景が吉凶のサインとされました。夢を通じてメッセージを受け取り、それに基づいて日々の行動や重要な決定に役立っていたと言われています。。例えば、蛇の夢、特に白い蛇は幸運を示し、激しく燃える火は、何かしらの問題が起こる前触れなどに解釈されました。

星占

星の動きを観察し、個人の運勢や吉凶を占う技法です。北斗星占いは、陰陽師が北斗七星を用いて未来を占う占術です。北斗七星は、陰陽道において重要視され、天体の位置が天皇や朝廷、国全体に影響を及ぼすと考えられていました。北斗七星の動きによって年や月の吉凶が決まるとされ、陰陽師たちはその動きを読み解いて政治や社会の動向を予測しました。六壬式占(りくじんしきせん)は、古代中国から伝わった複雑な占いの方法で、陰陽師が式盤という道具を使って行っていました。式盤は、木や金属でできた盤に十二支や方位が刻まれており、この盤を使ってさまざまな問題の原因を探り、占いを行いました。たとえば、天皇が病気になったときにその原因を調べたり、災厄が近づいている兆しを探ったりするために使われていました。北斗七星や六壬式占を用いた陰陽師の占術は、単なる未来予測ではなく、運命を読み解き、時には変えるための重要な技法だったのです。

反閇(へんばい)

反閇は、天皇や貴族が外出する際に、陰陽師が邪気を払うための特別な儀式です。足をしっかりと踏みしめながら呪文を唱え、周囲の邪気を追い払っていました。こうした反閇の儀式で道を清め、貴族たちが安心して外出できるようにしていました。反閇の足さばきには、歩くときに足をしっかりと地面に踏みしめることで地の気を整え、周りの空間から邪悪なエネルギーを取り除くという意味が込められていました。この特別な足さばきにより、道中の邪気が払われ、進む先が清められるとされていたのです。平安時代には貴族の護衛の一環としてもこの技法が用いられ、安全と安心を得られるように努めていたと言われています。

泰山府君祭(たいざんふくんさい)

「泰山府君祭」は、安倍晴明が始めたとされる陰陽道の代表的な祭りです。泰山府君とは中国の道教で死者を司る神であり、日本では陰陽道に取り入れられ、死者や病者を救済し、長寿を祈る神として信仰されました。泰山府君祭は特に病の回復や延命長寿、さらには国家の安泰を祈願するために行われた祭りです。この祭りでは、安倍晴明や高位の陰陽師たちが厳粛な儀式を行い、霊的な加護を求めました。泰山府君に祈りを捧げることで病気の回復や邪気の除去を祈願し、人々の健康と長寿を願うとともに、死者が成仏し、安寧がもたらされることを祈りました。

安倍晴明ゆかりの地

1.清明神社 住所:京都府京都市上京区堀川通一条上ル806
ホームぺージ:https://www.seimeijinja.jp/
・平安時代の著名な陰陽師・安倍晴明を祀る魔除け・厄除けの神社で、晴明の屋敷があった場所に建てられています。境内には五芒星をあしらったシンボルや晴明井と呼ばれる井戸やゆかりのある一條戻橋が再現されています。
2. 土御門神社 住所:福井県福井市大手3丁目17-1
ホームぺージ:https://onmyodo.jp/tensha/
・陰陽道の名門である土御門家ゆかりの神社で、陰陽道の神秘を今に伝えていて、泰山府君大神がご祭神です。
3.五方山 熊野神社 住所:東京都葛飾区立石8丁目44-31
ホームぺージ:https://jinjya.kumano-kids.com/
・安倍晴明訪れた際に、熊野大神が勧請された神社。ご祭神は伊邪那岐大神・ 速玉男大神・事解雄大神。八咫烏をご神紋としています。

陰陽師関連の参考図書

下記の図書も参考にして書かせて頂きました。
1.桜井哲夫, 『陰陽道の世界』, 講談社学術文庫, 1998年
2.田中真一, 『日本における陰陽道の伝来と展開』, 吉川弘文館, 2001年
3.高橋一行, 『日本陰陽道の歴史』, 中央公論社, 1995年
4.井上章一, 『平安京と陰陽師』, 平凡社, 1994年
5.木村守道, 『日本呪術の研究』, 人文書院, 1988年
6.松本義信, 『日本の仏教と陰陽道』, 吉川弘文館, 2000年
7.梅原猛『陰陽師』、新潮社、2003年
8.白石貴樹『陰陽道の本』、学研、1994年
9.清明神社

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