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なぜスピリチュアルは、理解されにくいのか

スピリチュアル講座 ブログ

投稿日: 2025.01.05
スピリチュアルアルケミスト 小西未珈

別の視点から見たスピリチュアル

スピリチュアルという言葉に対して、「怪しい」「信用できない」「危険なのではないか」「根拠がない」・・・などという反応が向けられる場面は、今も少なくありません。

特に、スピリチュアルを仕事としている人や、学びとして真剣に向き合っている人ほど、そうした言葉に戸惑い、傷ついた経験があると伺っています。

ですが、私は、この反応をただ「分かってもらえない」と嘆くのではなく、もう少し距離を取って見つめ直してみたいと思っています。

なぜなら、スピリチュアルをめぐる否定や不信は、「内容そのもの」以前に、人が“理解できないもの”と出会ったときに起こす反応や、社会が“理解の拠り所”をどこに置いてきたかに強く影響される傾向があるからです。

つまり問うべきなのは、「正しいか/間違っているか」ではなく、なぜそう見えてしまうのか、そして どうすれば誤解が生まれにくい形で共有できるのか なのかもしれません。

このブログでは、スピリチュアルを擁護するためでも、否定するためでもなく、「誤解が生まれる構造」を手がかりに、スピリチュアルを理解してもらうための“教育”という視点へとつなげていきます。

誤解は、どこから生まれているのか

ここで一度、「スピリチュアルが誤解される理由」を、個人の能力や資質の問題から、少し離れて考えてみたいと思います。

スピリチュアルに対して向けられる否定的な意見の多くは、

「本当に視えているのか」
「本物なのか、偽物なのか」
「結局はお金儲けなのではないか」
「騙されるのではないか」

といった点に集中しがちです。

こうした疑問や不信感が生まれる背景には、過去に実際に問題のある事例が存在してきたことも、無関係ではないでしょう。
しかし、その問いの立て方そのものが、すでに私たちを誤解へと導いている可能性があります。

なぜなら、人は

「何をどのように学んできたか」
「どのような経験を積んできたか」

によって、理解の枠組みそのものが大きく左右されるからです。

学ぶ機会がなく、基準も示されていない世界に対して、外側から

「本物かどうか」
「お金目的ではないか」
「騙されるのではないか」

と判断しようとすること自体が、非常に難しい構造になっているとも言えます。

理解されないものは否定されやすい心理の仕組み

人は本来、自分にとって未知のもの、理解できないものに対して、自然と恐れや警戒心を抱きやすい存在と言われています。

理解できない状態が続くと、人はそこに不安を感じます。
そしてその不安を和らげるために、

「これは怪しいものだ」
「危険なものに違いない」

と意味づけることで、心の安定を保とうとする傾向が高まります。

結果として、十分に理解されないまま、
スピリチュアル全体が

「怪しい」「危険」と短絡的に分類されてしまう

という現象が起こります。

この反応は、スピリチュアル特有のものではありません。
歴史を振り返れば、新しい概念や価値観が登場するたびに、同じような反応が繰り返されてきました。

疑念や警戒心が生まれる背景について

また、こうした疑念や警戒心の背景には、個人の性格や判断力だけでは説明できない、社会的・心理的な要因が深く関わっている場合もあります。

歴史を振り返ると、その一例として、いわゆる海外における「魔女狩り」が挙げられるでしょう。

魔女狩りは、実際に「危険な存在」が多数存在していたから起きたものではありません。
むしろ、未知のものに対する恐れや不安、理解できない力や概念への警戒心が、集団心理の中で増幅された結果として起こったものでした。

理解できないものは、説明される前に

「怪しいもの」
「危険なもの」

として扱われやすい。

その構造は、現代において

「スピリチュアル=怪しいもの」

と短絡的に結びつけられてしまう反応とも、本質的に重なっています。

当時の人々が、未知のものに対して恐れを抱いたように、現代の私たちもまた、自分の理解を超えた領域に対して、無意識のうちに距離を取ろうとすることがあります。

そうした価値観の中で生きてきた場合、スピリチュアルという言葉に触れた瞬間、反射的に警戒心が働くことも大いにあるのではないでしょうか。

ここで大切なのは、こうした反応を「未熟さ」や「無知」と切り捨てることではありません。

それはむしろ、これまでの社会や文化の中で形成されてきた防衛的な反応であり、個人の問題というよりも、集団や歴史の中で繰り返されてきた構造の一部なのです。

恐れや不安が、社会の中で形づくられてきた過程

いわゆる海外における魔女狩りは、人々が未知のものを恐れた結果としてだけでは、十分に説明することはできません。
そこには、恐れや不安が社会の中で共有され、理解される前に意味づけられていった過程が存在していました。

当時の社会では、宗教的な権威が

「何が正しく、何が危険なのか」
「何を信じ、何を恐れるべきなのか」

を定義する役割を担っていました。

人々は、自ら確かめ、考えるよりも先に、社会の中で語られる物語を通して世界を理解するという立場に置かれていたのです。

魔女とは、最初から恐怖の存在だったわけではありません。
さまざまな不安や混乱を説明するために、「恐れるべき存在」として意味づけられ、社会の中で共有されていった象徴的な存在でした。

現在では、魔女狩りは無知や迷信の結果としてだけでなく、権威と物語によって恐怖が正当化された歴史的事例として捉え直されています。

では、現代はどうでしょうか。

現代社会において、かつて宗教が担っていた「正しさ」や「危険性」を定義する役割の一部は、メディアへと移行しているようにも見えます。

スピリチュアルに関する報道では、ごく一部の問題事例が強調され、その背景や多様性が十分に語られないまま、

「怪しいもの」
「関わると危険なもの」

という物語だけが、繰り返し共有されていく傾向も否定はできません。

ここで問題となるのは、スピリチュアルそのものではなく、恐怖を軸にした物語が、教育や理解の文脈を持たないまま流通してしまうことです。

恐怖は、理解を深める代わりに、考えることを止めさせてしまう力を持っています。
魔女狩りの時代も、そして現代も、構造として起きていることは、決して大きく変わっていないのかもしれません。

人は何を拠り所に、世界を理解してきたのか

では、その一方で、スピリチュアルが語られる場面で頻繁に持ち出される「科学」は、同じように権威として機能しているのでしょうか。

本来の科学は、誰かの言葉を信じるためのものではありません。
科学とは、仮説を立て、検証し、反証の可能性を残しながら理解を深めていくプロセスそのものです。

つまり科学は、権威ではなく立証と検証のための方法論 です。

しかし現実には、スピリチュアルの文脈において「科学」という言葉が使われるとき、その本来の意味よりも、

・科学的であれば正しい
・科学的でなければ信じる価値がない

という “権威的な使われ方”がされてしまうことも少なくありません。

数値化だけでは捉えきれない世界観

スピリチュアルが語られる場面では、
しばしば

「科学的に説明できるのか」
「数値で示せるのか」

という問いが持ち出されます。

それは必ずしも、スピリチュアルを否定するためだけに投げかけられているわけではないでしょう。

むしろ、理解が難しいものに触れたとき、人がより確かな拠り所として、慣れ親しんだ説明の枠組みに立ち戻ろうとする、とても自然な反応だと感じます。

ここで一度、「科学」という言葉の意味を、少し丁寧に捉え直してみたいと思います。

本来、科学とは、誰かの意見や立場を信じるための“権威”ではありません。

・仮説を立て
・検証し
・反証の可能性を残しながら
・理解を更新し続けていく

その 立証と検証のプロセスそのものが、科学だと言えるでしょう。

確かに、わたし自身も研究の過程で、データを数値化し、有意差をもとに「ある傾向が考えられる」という形で論文をまとめてきました。
しかしそれは、あくまで「傾向が示唆される」という段階であり、絶対的な確証とは異なります。

つまり科学とは、
「信じる対象」ではなく、
「問い続けるための方法論」なのだと思うのです。

ところが、スピリチュアルの文脈において「科学」という言葉が使われるとき、
その本来の意味とは少し異なる形で扱われてしまうことがあります。

「数値で示せないなら意味がない」
「科学的でなければ信憑性がない」

といったように、安心や正しさを担保するための基準として、持ち出されてしまう場面も少なくありません。

そこでは、科学が本来持っている柔軟さや更新性よりも、

「分かる/分からない」
「信じてよい/疑うべき」

を即座に分けるための、単純な物差しとして使われてしまっているように感じるのはわたしだけでしょうか・・・。

一方で、スピリチュアルが扱うのは、人の意識や内面、意味や価値、体験の質といった、数値化だけでは捉えきれない領域です。

そのため、外側を測るための科学的な枠組みだけで理解しようとすると、違和感や抵抗が生まれやすくなるのも、無理のないことなのかもしれません。

それは、どちらが正しいかという問題ではなく、外側を測る領域と、内側を理解する領域が異なる、ということなのでしょう。

だからこそ、スピリチュアルをめぐる議論が

「科学か、非科学か」
「信じるか、信じないか」

という対立に陥ってしまう前に、体験や内面の変化を、落ち着いて理解していくための 教育的な枠組みが必要になってきているのではないか、と感じています。

だからこそ必要なのは「教育の整備」

ここまで見てきたように、スピリチュアルが誤解されやすい背景には、心理的な反応や歴史的な構造、そして現代における理解の枠組みの変化がありました。

では、そのズレを埋めるために、今、何が必要なのでしょうか。

それが、スピリチュアルを「感覚や能力の話」ではなく、学びとして整えていく視点なのかもしれません。

この視点に立つことで、スピリチュアルが本来どのような体系を持ち、なぜ現代では説明や立証が求められるようになったのかが、よりはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

スピリチュアルは、本来「体験を通して体得される体系」だった

本来、スピリチュアルの領域は、知識を一方的に学ぶものではなく、体験を通して、段階的に体得していく体系を持っていました。

儀式や修行、師弟関係、長い時間をかけた内省や実践を通して、その人自身の意識や在り方が変化していくことで、初めて理解されていく世界だったのです。

その意味でスピリチュアルは、「説明される前に、体験によって確かめられるもの」として受け継がれてきました。

なぜ現代では、それだけでは信頼されにくくなったのか

しかし現代では、こうした 体験を通した体系そのものが、十分な信頼を得にくくなっているという傾向があります。
体験は本質的に主観的であり、個人差が大きく、外からは見えにくいものです。

そのため、

「本当にそうなのか」
「思い込みではないのか」
「再現性はあるのか」

といった疑問が生まれやすくなっています。

これは、スピリチュアルが劣っているからではありません。
むしろ、現代社会が、理解や信頼の前提として「説明可能性」を強く求める社会になっていることの表れだと言えるでしょう。

「立証」が求められるようになった背景

こうした社会の変化の中で、スピリチュアルの領域にも立証や説明を求める声が向けられるようになってきました。

ここで重要なのは、
この流れを

「スピリチュアルが未熟だから」
「信頼に値しないから」

と単純に捉えないことです。

それはむしろ、体験だけでは共有しきれないものを、他者と分かち合うための言語や枠組みが必要になったという、社会側の要請でもあります。

さらに近年では、スピリチュアルが誰にとっても「仕事として選択できるもの」になってきたという背景もあります。
インターネットやSNSの普及により、特別な所属や長い修行の場を経なくても、個人が活動を始められる時代になりました。

これは一方で、スピリチュアルが閉じられた世界から開かれ、多くの人が関われるようになった前向きな変化でもあります。

しかし同時に、共通の基準や教育の土台が存在しないまま活動が可能になってしまったことによって、

・どのような能力や経験が前提なのか
・どこまでが扱ってよい領域なのか
・何をしてはいけないのか

といった判断が、個人に委ねられてしまっている現状も生まれています。

その結果、能力や理解の深さに関わらず、「スピリチュアルを仕事にすること」が可能になってしまうというあやうさも含んでいるのです。

この状況は、誰かの資質や倫理の問題というよりも、支えるべき教育的な基盤が整っていないことに大きな原因があるように感じています。

立証や説明が求められるようになった背景には、
こうした

「開かれたがゆえに、基準が曖昧になった状況」

に対する、社会全体の不安や問いも含まれているのではないでしょうか。

だからこそ今、スピリチュアルの領域には、

・体験を尊重しながら
・説明と前提条件を共有し
・安全性と倫理を明確にする

教育という基盤が、これまで以上に必要とされているのではと感じています。

体験と学びを、どのようにつないでいくか

スピリチュアルの世界では、本来、体験そのものが学びであり、体験を通して少しずつ理解が深まっていく、という在り方が大切にされてきました。

一人ひとりの体験は尊重されるべきものであり、それ自体に価値がないわけではありません。

ただし現代においては、体験がそのまま外側に共有され、体系のないまま仕事やサービスとして提供される場面も増えているように感じています。

そのときに大切なことは、
その体験が、どのような学びの体系の中に位置づけられているのか
という点だと思っています。

体験が学びとして共有されるためには、

・どのような前提や世界観に基づいているのか
・何を目的としているのか
・どの段階を扱っている体験なのか

といった事柄を整理してくことは大切なのではないでしょうか。
こうした整理がないままでは、受け取る側は判断の軸を持ちにくくなります。

そのため、
スピリチュアルにおける「教育」とは、体験を否定したり、制限したりすることではなく、
体験を、学びとして安心して受け取れる形に整えていくことなのではないでしょうか。

体験を閉じたものにするのではなく、学びとして開いていく。
そのためには、それぞれの体系や段階、前提条件を示していく。

この視点こそが、これからのスピリチュアルにとって、とても大切な基盤になっていくのだと思っています。

最後のまとめ:新しい視点として

ここまで述べてきた内容は、スピリチュアルについて何かを結論づけるためのものではありません。

ただ、これまで当たり前のように

「信じる・信じない」
「怪しい・正しい」

と分けられてきたものを、別の角度から見直すための、一つの整理として書いています。

この文章は、誰かを説得するためのものでも、何かを批判するためのものでもありません。

ただ純粋に、スピリチュアルという世界を、どのような形で知ってもらう機会があり得るのだろうかという思案から生まれたものです。

そして、スピリチュアルを考えるための、別の視点を差し出すことができたなら、それだけで、この文章の役割は十分なのだと思っています。

今回の内容は、スピリチュアルについて何かを結論づけるためのものではなく、
「どのように理解し、どのように学んでいくのか」という視点を整理する試みでした。

もし、
・もう少し具体的な世界観に触れてみたい
・実践や体験の側面からも考えてみたい
・スピリチュアルがどのように人の内面と関わってきたのかを知りたい

と感じた方は、以下の記事も参考にしてみてください。

月のシャーマンという視点
魂・意識・役割という観点から、シャーマンという存在を捉え直す記事です。

内的錬金術という考え方
変容や成長を「能力」ではなく、内的プロセスとして扱う視点をまとめています。

スピリチュアルカウンセリングとは何か
スピリチュアルカウンセリングの基本的な考え方を整理しています。

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